近所にある城跡!!!

今日は「建国記念の日」でポカポカの良い陽気となりました。

建国記念の日と聞いて何か違和感を感じるのは私だけ?

何故「建国記念日」じゃないの。

紀元節と呼んだ方が建国の意義も分かり易いと思うけど。

しかし、名前は変われど国の誕生を祝う気持ちは同じなので、今日は国を思う一日にしたいと思います。

以前から気になっている事が有って、今日はその場所を訪れてみる事にしました。

その場所とは最寄り駅から3駅先の神鉄道場駅のすぐ東に有る独立した低丘陵(小山)です。

現在は宅地造成が進んでおり、やがて住宅が立ち並ぶことになりそうですが、造成される前に一度訪ねてみたかったのです。

今は造成中の禿山ですが、ここには昔お城が建っていたそうである。

築城年代は不明だが、天正元年(1573)有岡城の荒木村重と戦い其の年の5月には秀吉に叛する三木城主・別所長治に協力し天正6年(1578)当時の信長の部将であった羽柴秀吉の播磨攻め 「三木城攻め」の際に淡河城の淡河氏と婚姻関係にあった松原城守義富(右近大夫貞利)は別所氏に付くが三木城開城後に秀吉の命で塩川伯耆守国満 ・山崎左馬介・池田輝政・中側瀬兵衛などに攻められ義富(右近大夫貞利)以下討死したともいわれており、松原城は天正7年(1579)落城したとなっています。

城名は多くの別名を持つようですが落城時の最後の城主から松原城▼その夫人が鼓の名手でその鳴る音から蒲公英たんぽぽ城の名が体勢を占めている▼たんぽぽは「つつみ草」とも呼ばれることからそう呼ばれたようです▼松原城は神鉄道場(旧・道場川原)駅にあり築城初期の佐々城・道場川原城・また旧地名の日下部から草下部城とも呼ばれている。

城跡は現在は造成中のため周りを工事用パネルで囲われている。

お城の規模は丘陵の東西約150mx南北約100mに東郭・主郭・西郭に帯曲輪を廻し、高い切岸と土塁・井戸もあり、東と西に木戸門の痕跡が残っている▼ 駅から城の周り(工事用パネル)に沿って東へ旋回すると旧街道沿いにお地蔵さんが有った・・・。

この脇に城に通じる小さな坂道が残されていたので登ってみると工事用土嚢の隙間から古城跡を垣間見る事が出来た。

所々に壊れた石積みや、土塁らしき物が見えるのでこの場所にお城が有ったのかと思うと感慨深い物がある。

この地から西へは長尾川沿いに吉川・三木方面への播磨道▼有野川は吉尾から八多へ、有馬川も山口町から有馬温泉に至る湯山(有馬)街道で三木城攻略時に秀吉が有馬温泉に通った街道でもある▼また摂津~丹波を結ぶ 丹波街道(京街道・但馬街道)にも繋がる大坂街道の要衝で、中世は城下町として近世(江戸時代)の日下部村・道場川原どうじょうがわら村は宿場町として栄えていたそうである。

丘陵の南には八多川が流れ、その先で有馬川に合流している。

この川に掛かる橋を越えると旧街道に沿って昔の宿場町である道場町(旧 道場川原どうじょうがわら村)が有る。

すっかり寂れているが、今でもその宿場町としての風情を残している道場の街並み。

松原城のすぐ東にある旧街道の向かい側には武家屋敷らしき建物が並ぶ。

こんな近所に、こんな史跡が残されていた事すら最近まで知らなかった。

宿場町の中に小さな神社(愛宕神社)が有る▼今から三百年前の「摂陽群談」という書物には道場川原村は宿場町で旅人宿が多く、火災が発生し易かったので火伏せの神を祀る愛宕神社が有ると記されているそうです。

また、元文元年の「摂津志」によれば、この地の麗水で作る酒は「香味軽くして美なり、人好んで之を求む」とあり、その水で練る平飴はすこぶる美味で、有馬温泉に来た関白秀吉も感心して、税を免除して奨励したと伝えていると記されている。

 しかし、酒蔵は消え今では街並みも一般住宅に建て替わりつつある▼このまま年数を重ねると今の古い街並み全てが何時の間にか消滅してしまうような気がしてならない。

個人的には松原城を再現し、昔ながらの街並みを保存する事で地域の町興しに繋がっていくのではないかと思うのだが。

 この松原城のすぐ近くに宅原えいばら城跡も有ります▼車で移動して寄ってみました▼城山の周りは住宅がビッシリと立ち並んでいますが、この城山は取り壊されずに残されています▼今は雑木林になっており何処から登れるのか入山道を見つける事が出来ませんでした▼今日はもう歩き疲れたので機会が有ればまた訪ねてみたいと思います。

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